ミミ(耳)

1年前の今日

2015年04月13日
1年前の今日4月13日、前の猫ミミが他界しました。ほぼ17歳でした。


最期は腎不全からくる尿毒症、胸水症で苦しかったことと思います。

最期の時は苦しくないように幸せホルモンが分泌されるのだと聞きますが、最期の日は朝から本当によくお喋りしたり、甘えたりしてきました。

最期の日の数日前から、トイレに行くことができなくなっていて、布団にしていました。そのたびにミミの体を動かさざるを得ず、それがミミにとって負担になっていたようでした。少しでもミミの負担が減ればと思い、お昼少し前にオムツを買いに出かけている間に・・逝ってしまいました。

帰って来て、病気を持ち込まないように念入りにうがい手洗いを済ませ、ミミの所へ行ったときは、暖かかったです。まだ暖かかったのではなく、おそらくほんの数分、もしかすると数秒前だったのではないかと思います。
猫は一人で逝きたい子が圧倒的に多いそうです。飼い主さんがお手洗いに行っている間に、などちょっとの時に逝ってしまう子が多いのだそうです。
多分ミミも、私が帰って来たのを感じながら、部屋に入るまでの間に逝ったのだと思います。

買い物に出る前に、「できるだけ早く帰るから」と言った時のミミの顔が忘れられません。いえ忘れたくないです。ずっと苦しい時が続いていた中で、久しぶりの穏やかで可愛い顔でした。苦しそうな顔を覚えいているよりは、あの時の可愛い顔をミミも覚えていて欲しいはずです。



私のミミの看病の仕方を見聞きして、母が「あんたがこんなに猫が好きだとは思わなかった。」と。
この言葉に違和感がありました。
なぜだろう・・・何に違和を感じるのか??
いや、待て・・・・・・私は猫が好きなのか・・・?

私を知る人からは「今更何言っているの」と言われそうですが、考えたことがなかったのです。物心ついた時には既に傍らに猫がいて、いるのが当たり前でした。好きかどうかなんて考えたことがなかったのです。

いえ、猫が好きなんだと思います。
でも病気の犬が傍らにいれば多分同じように看病すると思うし、ウサギやハムスターだったとしても同じようにすると思うんです。

ただ、猫の場合、他の動物と決定的に違うのは、いるのが当たり前、いないのは私にとっては異常な事だということです。

ミミが逝ってしまって、かけがえのない相棒がいなくなってしまったことと、猫が傍らにいない、という2つの異常事態に襲われました。

ミミにお願いしていたら、今の子アンが来てくれました。

アンが来て、猫がいないという異常事態の一つは解消されました。
寂しさは癒されていますが、悲しみは・・まだ癒えません。悲しみに暮れる時間は少なくなってはいます。少しずつでも、ミミとの楽しい思い出の方を多く思い出せるようになればいいなと思っています。

今はミミに感謝しながら、ミミが連れて来てくれたアンを精一杯大事にしようと思っています。